2010年10月28日

世界の最貧困地帯を描く ノンフィクション作家・石井光太さん

「物乞いを可哀想だと思うよりも、美しさを感じる」

アジアの障害者や物乞いたちを描いた『物乞う仏陀』や、イスラム諸国の隠された性を浮き彫りにした『神の棄てた裸体』などの著者である石井光太さんとはじめて会ったのは、2008年春のこと。
当時僕が関わっていた『月刊PLAYBOY』でスタートする新連載の打合せのためだった。

インドネシアの少女売春を取材するために売春宿の主に頭を下げて住み込みで働いたほどの人だから、無骨なジャーナリストを想像していたが、実物の石井さんは正反対だった。
やや甲高い声でよくしゃべり、冗談を言っては笑う物腰柔らかな人。
薄暗い居酒屋の照明にスキンヘッドが照らされて後光が射しているように見え、当時は今より少しふくよかだったから、大黒様みたいだなと思ったのが初対面の印象だった。

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ムンバイのチャトラ・パティ・シヴァージー駅の前で物乞いをする障害をもった子ども



『月刊PLAYBOY』の連載のテーマは、「レンタルチャイルド」だった。
インドのムンバイでは、マフィアがどこからか子どもをさらってきては、彼らを女性の物乞いに貸し出す。彼女たちが赤子や幼い子どもを抱いていれば、より多くの同情を誘い多額の喜捨を得られるからだ。しかし、子どもたちが成長してレンタルチャイルドとしての商品価値を失うと、マフィアは彼らの目を潰したり手足を切断したりして、障害者の物乞いに仕立て上げる。
そんな危険なマフィアの巣窟に、石井さんは入っていき取材をしたのだった。

レンタルチャイルドの後、石井さんはアフリカの少年兵、日本国内のHIV患者の性生活などを取材している。
物書きを生業としているのだから、誰も扱ったことのないテーマに挑むのは真っ当だけれど、これほどまでにハードな題材ばかりを描くのはなぜなのか? 

「単純に、面白いからです。小さな理由をあげていったらキリがないし、分かり
 やすく言っても嘘になります。
 僕は、東京・世田谷区の一等地に生まれ、恵まれた環境で何不自由なく育った。
 五体満足だし、虐待された経験もないので、取材テーマに対する分かりやすい
 動機は一切ないです」


何度も同じ質問をされているのだろう、彼は飄々と答えた。
テーマに対して使命感のようなものを抱いて書いているわけではない。誤解を恐れず言えば、石井さんの作品からはある意味、覗き見趣味的な印象を僕は受ける。そう告げると、彼は何度かうなずいた後に、「ある種の、フリークス好きみたいなところが僕にはある」と言った。

英語のfreakには、奇人、変人、奇形、中毒者などの意味がある。いわば「正常であること」から外れた、あるいは外れざるを得なかった人たちのこと。

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路上生活者が亡くなると、遺族はその死体をつかって喜捨を求める。
普通に物乞いをするより何倍も儲かるという。バングラデシュのダッカにて


 「物乞いや障害者を可哀想だと思うよりも、美しさを感じるんです。接している
 うちに、彼らが見せる意地とか、強さや弱さ、人間くさい本当の感情を表す一瞬
 が美しい。たとえば、貧困地域で、お金はいらないからセックスがしたいという
 売春婦がいました。それは僕らにだって共通するんです。寂しくてたまらないと
 きは、誰かと一緒にいたい、抱かれていたいという気持ち。
 彼らの行動を異常であると思うのではなく、突き詰めて考えていった先には自分
 自身がいる。そのことを発見した瞬間に、美しく感じるんです」



フリークスを見ると安心する、と石井さんは言う。先進国に住む我々が「正常」で、彼らは「異常」なのか。アジアやアフリカの貧困地帯を歩いてきた石井さんの目には、欺瞞に満ちたこちらの世界こそ胡散臭い異常なものに映るのだろうか。

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石井さんは本や雑誌の企画を考えるとき、独特の発想をする。

 「僕は、目の前のものを全部疑ってみるんです。
 たとえば、インドの物乞いを見て、普通の人は可哀想だと思うだろうけど、僕は、
 本当はけっこう稼いでいるんじゃないか? と疑うんです。それがものを考える
 スタートになる」


目の前にあるAというものを、そのままAとして認識するのではなく、それは本当はBなのではないか、と疑う。そうすると、あらゆるものが書くテーマになっていく。なるほど、これなら無限にテーマが浮かんでくる。

 「極端に言えば、たとえば男がふたりで歩いていれば彼らはゲイだと、僕は言い
 切ってしまうんです。実際はそうではないことがほとんどでしょうけど(笑)。
 そうやって仮説を立てて、空想して、調べていく。そういうやり方ですね。
 僕は真面目な人間じゃないんです。何かを背負って書いているわけじゃなく、
 単純に面白いものを宝探ししている。道を歩いていたら穴があいている。宝が
 埋まっているんじゃないかと深く掘り下げる。宝がなければ他の穴を探す、と
 いう感じです」


重いテーマを扱いながら、大義名分を振りかざすことなく、こんなふうに「面白いから」と言い切ってしまうところが、石井さんの正直で面白いところだ。

石井光太.JPG



ところで、これまで取材で出会った人間でいちばん強烈な印象を受けたのは誰かときくと、ムンバイの寺院で物乞いをしていた全身イボだらけの男をあげた。その男は何の病気か、本当に全身が大小のイボで覆われているのだ。

 「彼を見たときは『ウワーッ!!!』でしたね。
 写真を撮るべきか撮らないべきか逡巡したけど、次の瞬間にはシャッターを押し
 ていました。あそこで撮らないという選択肢をとったら、僕はこの仕事をする資
 格がないと思うんですよ」

ものを書く人間として世界の現実を提示することによって、読者が何かを考えるきっかけになればいい、というのが石井さんのスタンスだ。
しかし、貧困と空腹に喘ぐ人たちを描くことで、石井さんは飯を食べているということも事実だ。このことに眉をひそめる人もいる。たとえ、本が日本でベストセラーになったとしても、それによって直接、彼らが救われるとは考えがたい。

以前、石井さんはこう漏らしたことがある。
「悲惨な現実を目の当たりにして、でも自分にはどうすることもできないっていうのは、つらいですよ」と。それは偽らざる本心だろう。
仕事だからと割り切って考えられる部分と、そうではない部分の違いは何なのか。
今度会ったときにはそれをじっくりきいてみたいと思う。


地を這う祈り表紙.jpg
本最新刊『地を這う祈り』徳間書店
世界の貧困地域を歩いた集大成であるフォトエッセイ集。全身イボに覆われた男の写真も掲載されている


●石井光太 
1977年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに執筆。そのほか、TVドキュメンタリ、漫画の原作、写真発表なども手がけている。著書に『物乞う仏陀』(文春文庫)、『神の棄てた裸体』(新潮文庫)、『絶対貧困』(光文社)、『レンタルチャイルド』(新潮社)などがある。

石井光太公式サイト


posted by 若手 at 14:49 | Comment(1) | TrackBack(0) | ゴメス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
絶対的な貧困とは、もはや現代の日本人にとってはファンタジーの世界である。その「おとぎの国」の話を私たちと地続きのリアルな世界として提示した、というのが石井光太氏の一連の著作の客観的評価として妥当なものだと思う。何よりもその回路を接続することに成功したこと、つまり理解不能の「他者」だった絶対的貧困にある人間を、共感可能な存在として私たちに提示したことこそ石井氏の功績である。

ただ、このような絶対的貧困のルポには偉大な先人がいる。特に有名なのが、横山源之助の『日本の下層社会』と松原岩五郎の『最暗黒の東京』だろう。どちらもまだ日本に絶対的な貧困というものが文字通り存在していた明治期のものである。また貧困研究の第一人者の一人である中川清の整理に従えば、石井氏の仕事は横山や松原と同様に、「貧民窟踏査」と呼ばれる種類のものである。
石井氏の限界があるとすれば、こうしたルポはこの「踏査」という次元を超えられない点にある。大正、昭和初期におけるスラムルポが、細民生活の驚愕体験談として大衆に消費されるにとどまったのと同様、石井氏の仕事も同様の危険を抱える。編集者が「仕事だからと割り切って考えられる部分と、そうではない部分の違いは何なのか」と問いかけるのはこの点に関わるものだろう。

そこで、石井氏の著作とセットで読むべきはジェフリー・サックスである。『貧困の終焉』の中で、大真面目に世界の貧困を解消するための解決策を論じたアメリカの経済学者である。彼の案は経済学的に非常な説得力を持ったため、世界の指導者にもすこしずつ共感者が増えている。
「ジェフリー・サックスに反対する人間は石井光太を読め」、そう云う教育者がいてもいい。その時には、石井氏の著作は単なる「貧民窟踏査」を超えた意義を持ち始めるかもしれない。
Posted by きちんと at 2010年10月29日 19:56
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